Will Be King

競技日程的には最終日となる3月22日には、男子シングルのフリーが行われた。スウェーデンでは女子シングルよりも男子シングルの方が人気が高いということで、こちらを金曜日に持ってきたのだとか。

「旗、買ってきちゃったわ」

この日も観戦を共にした、スウェーデン人のエレナはそんな風に言いながら現れた。悪戯っぽく微笑む彼女の手には、青地に黄色のスカンジナビアン・クロス。棒付きのスウェーデン国旗が10クローナ(150円強)で売られていたらしい。

前日の男子SPで最も大きな歓声を送られていたのは、1位に立ったジェフリー・バトルではなく、欧州のビッグネーム、ステファン・ランビエールでもブライアン・ジュベールでもなく、革新的なヒップホップのプログラムで魅せてくれた高橋大輔でもなく、地元スウェーデンのエース、クリストファー・ベルントソンだった。

顔に国旗ペイントを施して、青と黄色のヴァイキング風の帽子をかぶる。大きな旗を振り、手を叩いて足を踏み鳴らし、賑やかに応援するというスタイルは日本人である私からすれば、フィギュアスケートではなくサッカーの応援であるかのように見えた。だが、少なくとも欧州からの観客はイエテボリの地元観衆のそんな応援スタイルを当然のものとして受け止めているようであり、これもまた、良くも悪くも文化の違いというものに気付かされた出来事だった。

スウェーデン男子の二番手、若手のアドリアン・シュルタイスにも、もちろん大きな声援は送られていた。彼らスウェーデンの選手は、ランク的には欧州選手権でも表彰台を狙うというより、10位以内に入れば健闘した、と言われるような位置のスケーターである。

そんな彼らが地元の大きな期待の中、世界の舞台でホスト国の代表として、己のできる限りに良い演技をし、少しでも高い順位を取ること。ある意味それは、世界ランキング1位の選手が世界選手権で金メダルを獲得することよりも難しいミッションなのではないのだろうか。外国人観戦者の立場からそんなことを考えてしまうと、俄然、スウェーデン勢の成功も祈りたくなる。

競技は午後から開始した。日本勢3選手の中での最初の登場は、南里康晴。アレンジは異なるものの、「カルメン」の旋律に、前々日の女子フリーでの《事件》が思い出されて、どうしても心が重くなる。けれどこの日南里が見せてくれたプログラムは、ジャンプにややミスはあったものの、SBを更新する好演で、決して《悲劇》では終わらない雰囲気があった。日本選手のスケートによる、希望の持てる「カルメン」(この場合、ホセなのだろうけれど)が、イエテボリで観られたことは嬉しく思えた。

スウェーデン勢では前半第2グループの第一滑走者として、まずはシュルタイスが登場してきた。前日以上の大歓声が、スカンジナビウム・アリーナ全体に湧き上がる。

立てた金髪に唇ピアスというパンクスタイルの青年は、不敵な佇まいから演技を始める。一箇所、ジャンプの着氷でひやっとした場面はあったものの、転倒もなく、確実に要素をこなしていく。技を決める度に上がる歓声。腰を低く落とした最後のイーグルは圧巻だった。銃を撃つ動作、「Mr.&Mrs.スミス」の映画音楽に合わせたパフォーマンスと、コンビネーションスピンでフィニッシュ。

手ごたえも十分だったのだろう。演技後のシュルタイスは、耳の後ろに手を当て、さらなる声援を要求する仕草までしてみせた。もちろん、地元の観衆はそれを受けて大いに盛り上がる。得点は自己ベストを更新し、この時点でのトップに立つ。晴れやかな19歳の笑顔に、見ているこちらも嬉しくなった。エレナも満足そうに、誇らしそうに旗を振って手を叩いている。

その後、米国のジェレミー・アボット、ロシアのセルゲイ・ヴォロノフシュルタイスの得点を超えたものの、地元選手が3位という位置につけたまま前半は終了、製氷作業の時間に入った。

そして、クリストファー・ベルントソンのいる第3グループの登場だ。演技開始前、6分間練習の間からスカンジナビウム・アリーナは青と黄色の洪水に包まれていた。「KOFFE(コッフェ)!」と、クリストファーの愛称を繰り返し呼ぶ声がスタジアムに響き渡る。この圧倒的な空気、同じグループの小塚崇彦は大丈夫だろうか、と、雰囲気に呑まれそうになりながらも、同じく練習を行っている日本の若手にも精一杯の声援を送った。

後半の第一滑走者、ベルントソンのフリープログラムの曲はディスコナンバーの組み合わせ。スローパートではX JAPANの「Forever Love」のメロディが採用されており、前年の東京ワールドでは日本の観客を大いに沸かせてくれた*1

最初から既にテンションの高いイエテボリの観客に、賑やかなこのナンバーはよく似合う。大きな期待と満座の手拍子と共に始まったプログラムは、だがどうした訳か、ジャンプが綺麗に決まらない。転倒はなんとか一回のみでこらえたが、これはベルントソンの本来のパフォーマンスではないだろう。それでもステップや軽妙なマイムで、魅せて楽しませてくれたのはさすがだった。

硬い表情のコーチと共に、ベルントソンはキス&クライに座る。SBを更新はしたものの、結果はこの時点で4位。なんと驚いたことに、後輩シュルタイスの方が上位に立ってしまったのである*2。一瞬、辛そうな表情を見せたものの、それでも穏やかな笑顔を絶やさなかったベルントソンは、たとえ演技内容が彼の本意ではなかったとしても、それでもなお、紛れもなく本日のヒーローのひとりだったと思う。

「ちょっと残念だったけど、コッフェはよくやってくれたわ」

スウェーデン選手の出番はこれで終わり。少し悲しそうにエレナは言って、旗を下ろした。

その後、ベルギーのケビン・ヴァン・デル・ペレンの鮮やかな好演などを経て、小塚崇彦の登場である。今度はこちらの番だとばかりに、日の丸を振って声援を送る。

小塚のフリープログラムは「ビートルズ・コンチェルト」。欧州の観客にも耳馴染みのあるメロディが続くからか、リズミカルな「エリナー・リグビー」では自然と手拍子が起こり、スローパートの「イエスタデイ」では人々はじっと息を飲んで、銀盤の上に描かれる軌跡を見守る。美しいスケーティングと、綺麗に決まるジャンプ。後半の二回の転倒は惜しかったものの、そんなことが問題ではないと思えるくらいに、小塚はトータルで素晴らしいプログラムを見せてくれた*3

そうしていよいよ、最終グループの登場だ。前年の世界王者、今季のGPF王者、欧州王者、四大陸王者が並び立つという、ある意味順当な顔ぶれ。SPでの点差もさほど大きくはない。

「この6人の中で、一番良い演技ができたスケーターが勝つんでしょうね!」

興奮気味にエレナとも語り合う。自国選手への期待や応援とは別にして、世界最高峰のパフォーマンスを楽しみにする気持ちというものも、観客のこちら側には確実にある。誰が勝ってもおかしくはない、世界王者を決める戦い。

若き欧州チャンピオン、チェコトマシュ・ベルネルが最終グループの第一滑走者として登場してきた。フリープログラムでは漢字の入った衣装をまとい、東洋風の音楽を使うという独特の世界観。満場の視線に包まれ、ベルネルは滑り出した、が――

四回転での転倒、止まらないジャンプの乱れ。実力を発揮できれば表彰台の頂点も夢ではなかった筈のベルネルのまさかの墜落に、重苦しい沈黙が訪れる。

「…プレッシャーが、大きすぎたのかもしれない」

もう、そんな月並みなことしか言えなかった。エレナも黙ってうなずくのみだ。

続くアメリカのジョニー・ウィアーは、ベルネルの結果に引きずられることなく好演を見せてくれたものの、個人的に優勝争いを期待していた高橋大輔ステファン・ランビエールが共に振るわず、ウィアーが1位に立ったまま、残すところ2人となった。

5番目の登場は2007年のワールドチャンピオン、フランスのブライアン・ジュベール。高橋、ランビエールらの不調によって、ショート6位と出遅れていたジュベールにもタイトル防衛のチャンスは巡ってきた。

メタリカのメドレーで滑り出す、今日のジュベールは動きに切れがある。冒頭の4T、その後の3Aと確実に決め、声援と手拍子に乗って、実にジュベールらしい演技を続ける。終盤、クライマックスのストレートラインステップの前では、大きなフランス国旗を掲げた自国の応援団の前で、ガッツポーズを見せる余裕まで! 最後のコンビネーションでセカンドジャンプがシングルになるミスはあったものの、演技終了後のジュベールは顔を紅潮させて、両の拳を握り締めて喜びを爆発させる。

もしも私がフランス人であったなら、あるいはジュベールのファンであったなら。間違いなくスタンディングオベーションを送っていたことだろう。だがそうではなく、この時の私は、どこか悔しいような思いを抱えながら、フランス三色旗の踊る客席と氷上に向けて拍手を送るのみだった。

そして最終滑走者、カナダのジェフリー・バトルの登場である。イエテボリ世界選手権の、本当の意味での最終滑走者。SP1位に立ったバトルは、色の濃い金髪に似合う赤と黒の衣装で登場してきた。

フリープログラムは「アララトの聖母」の映画音楽。神秘的なメロディに乗せて滑り出したバトルは、まずは2回の連続ジャンプを、鮮やかに確実に決めてみせた。流れるような美しいスケーティングに、吸い込まれるように見入ってしまう。

複雑なスピンに、途切れることのない伸びやかな動作、クリーンなジャンプの数々。ダイナミックな動きでは体全体を使い、リズミカルなステップでは音に乗って軽快なエッジワークを見せる。全ての要素を完璧に決め、しかもそれだけではない、ある種の神々しさまで感じさせてくれた、最終滑走者の名演技。これはもう、何を考えることもなく迷わず席を立っていた。周りも無論、総立ちのスタンディングオベーションだ。

満面の笑顔のバトルがキス&クライに座り、さほど待つこともなく採点が発表される。終わってみれば、圧倒的な点差でバトルの勝利となった。そしてそれは、観客側から見ても文句の付けようのない妥当な結果であり、男子シングルでは取るべき人間が金メダルを取ったと言えると思う。この日のバトルのフリースケーティングは、ベルネルの失意も、ウィアーの喜びも、高橋の闘志も、ランビエールの哀しみも、ジュベールの野望も、全てを超越した素晴らしい時間だった。

世界の王者、地元の英雄。得られる評価が違おうとも、名誉を手にした姿は美しい。フィギュアスケートの競技会は対人成績で順位の決まるものではあるが、己との戦いに打ち克ち、その時の自分のベストなパフォーマンスを実現することが、選手自身が自身の王でいることが、成績とは別にしても重要であると私は思っている(そしてそれはとても困難で、なかなか果たせはしないものだ)。

そんな挑戦と勝利の瞬間を目にすることができたこの日の観戦は、本当に幸せで、フィギュアスケートを観る楽しみを改めて教えてくれた、印象深いものだった。

*1:東京での好演によりベルントソンが9位に付けたことで、自国開催の選手権に男子2枠を得ることができたのである

*2:最終的にスウェーデン勢が13位と14位になれたことで、次回の世選にも2枠を確保できたことは本当に良かったと思う

*3:そして翌シーズンの大躍進。彼の大きな転換点となる舞台を、この目で見られたことを嬉しく思う