The Winner Takes It All

スタンディングオベーション》というものが、ぴんと来てはいなかった。

無論、TVでフィギュアスケートを観ていた場合、時として素晴らしい演技の後で

スタンディングオベーションです!」

といった興奮気味のアナウンサーの声と共に、立ち上がって拍手を送る客席の人々の姿という映像を目にしたこともあった。だがそれは例えば、贔屓の選手が良い演技をしたならとりあえず立っておこうかといった、そんな感じのものなのだろうな、と漠然と想像していた。

そうではないことを実感させてくれたのは、3月20日に行われた女子シングル・フリー、最終滑走者であった中野友加里のプログラム「スペイン奇想曲」である。

イエテボリ世界選手権での女子シングル、特にフリーの終盤はまさに波乱だった。開催国スウェーデンからの唯一のエントリー、ヴィクトリア・ヘルゲションが地元の暖かい声援に包まれて、前半2グループの最後に自己ベストを更新する演技を終えた頃はまだ平和であった。

けれどその後の製氷作業、第3グループの6分間練習を経た後の、後半の第一滑走者である2006年世界女王のキミー・マイズナーは演技に精彩を欠いていた。スイスのサラ・マイヤーが細かなミスはあったものの、優美な滑りで観衆を魅了し、この時点でトップに立つ。

そしていよいよディフェンディングチャンピオン、2007年世界女王、安藤美姫の登場である。ショートでは点数が伸び悩んでいたものの、上位陣の点差はさほど大きくはなく、もしも彼女が、年末の全日本で見せてくれたような「カルメン」を演じることができるなら、あるいは。

朝の公式練習でも、直前の6分間でも、明らかに安藤は本調子ではなさそうだった。それでも、彼女が自らの持てる力を出し切れたならば、連覇も決して不可能ではない。希望と祈りを込めて、氷上に滑り出てきた、黒と赤の蠱惑的なカルメンに精一杯の声援を送る。そして重々しいイントロから、曲が始まった。

…何が起こったのかは、よく判らなかった。ただ安藤が、もっとも得意とする筈のサルコウジャンプで転倒し、演技を中断、モロゾフコーチとジャッジと話し、退場の挨拶をするという信じられないような光景が、否応なしに眼下に繰り広げられていく。

「どうやら、彼女は怪我をしたみたいよ」

この日、諸般の事情により一緒に観戦していたスウェーデン人のエレナが、場内アナウンスの解説をしてくれた。怪我とは、右肩? それとも別な箇所を? それは彼女の選手生命に関わるようなものなのだろうか。嘆くより悲しむより、この時は騒然とする会場の中、予想外の事態にただ呆然と座り込んでしまっていた。

どよめきの収まらない、落ち着かない空気の中、次のスケーターであるアシュリー・ワグナーが予定時刻よりも早くにリンクに上がることとなった。かなり上位に入れるのではないかという期待を感じさせてくれていた、米国勢のホープ。だが、仕方なく、また気の毒なことでもあったが、ワグナーの世界選手権の初舞台は、この不測の事態の後に、自分の演技を崩してしまうという苦い結果に終わった*1

ここで第3グループの演技は終了。いよいよ、最終グループの登場である。

安藤の棄権の衝撃はまだ心に大きく、怪我の状況も気になっていたが、まだ日本選手は2人もこの最終グループにいるではないか。せめて彼女達には、いや、あと6人となった全ての選手には、自身の満足のいく素晴らしい演技が、ここスカンジナビウム・アリーナで実現できるようにとただ祈る。ところが――

イタリアのカロリーナ・コストナーフィンランドキーラ・コルピ。欧州開催の世界選手権で、地元ファンからの大きな声援を受ける彼女らにしても、クリーンな演技とは言い切れないパフォーマンスが続く。もちろん、これは世界最高峰の女子シングルの舞台。華麗にして驚嘆にあふれてはいるのだが、でも、どこか物足りないような気持ちにもさせられてしまう。

そんな中、最後から二番目に登場したのは日本のエース、浅田真央。いつも私達を驚かせてくれる《ミラクルマオ》が、通常通りのパフォーマンスをしてくれたならば、きっと大丈夫だ。声援を送り、祈るように見守る。けれど序盤に、これまでの浅田の演技で見たこともないような大転倒という、まさかのアクシデントに見舞われてしまった。

立ち上がって持ち直し、その他の要素を演じ切って見事、一人を残してトップに立つスコアを叩き出したのは流石と言う他はない。けれど浅田の高得点にもかかわらず、こちらの胸の中にわだかまるもどかしい気持ちは消えることなく、一層色濃くなっていくばかりだった。

そしていよいよ最終滑走者、中野友加里が登場した。

大丈夫だろうか、と大きな不安を抱いていてしまっていたのは、SPで3位につけた世界選手権の最終滑走者という、今まで中野が経験したことがないであろう舞台のスケール、また日本人選手に続いたトラブルから、見ているこちらが気弱にならざるを得ない状況によるものだったのだろうと思う。

氷上に映える、目にも鮮やかなオレンジ色の衣装。高らかに華やかに響き渡る「スペイン奇想曲」のメロディに乗って、凛とした動作で滑り出す。そしてこちらの危惧を綺麗に吹き飛ばすように、まず中野は、鮮やかなトリプルアクセルを決めてみせた*2。一気に高く上がる歓声。浅田が跳ぶことすら出来なかった(普段の彼女ならありえないことではあるが)大技、3Aを見事に決めたのだ!

スムーズに音楽に乗って、中野は氷上を舞う。手を付くことも、着氷の乱れも、もちろん転倒などなく、次々と軽やかに決まる、連続ジャンプを含む数々のジャンプ。初めて目にした者の目も奪わずにはいられない世界最高のスピン、優美な笑みを絶やさず、流れるように滑っていくスパイラルと、確かに刻まれるステップ。

クライマックスの音楽の盛り上がりとともに、中野のトレードマークともいえるドーナツスピンがリングの中央に描かれる。すっと真上に差し延ばされる腕。照明の効いた場内であるのに、まるでスポットライトに照らし出されているかのような、圧倒的な存在感と美しさを兼ね備えた姿がそこには見えた。

これまでの観戦時に積もっていた、もやもやとした気分を全て吹き払ってくれて、そしてその華麗な所作の数々に、ただ酔わせてくれるような名演。たまらず席を立って、言葉にならない歓声と拍手をリンクに向けて送る。それは私だけではなく、周りにいた日本人観客だけでもなく、この晩の波乱に満ちた女子シングルの行方を見守っていた様々な国からのオーディエンスが皆、次々に立ち上がって、最終滑走者・中野友加里の演技を讃えていたのである。

そうか、こういう感覚がスタンディングオベーション、《席を立って敬意を表す》という行為なのかと、この時まさに実感した。さらにはそれを我々にもたらしてくれたのが、日本代表の中野友加里であったということが、嬉しくも誇らしい。

様々な種類の喜びに包まれたまま、いったん腰を下ろす。隣席のエレナとも興奮気味に「良かったね!」と語り合う。まさか前年の東京での世界選手権のように、最終滑走者が逆転をして金メダルを獲得する――そんなことすらあるのではないかと、固唾を呑んで得点の発表を待つ。

ところがモニタの画面に示されたのは、ありえないほどの低い点数。「えええ!? なんで!!??」と思わず叫んでしまう。そんな私だけでなく、ブーイングはそこかしこでわきあがり、観客はジャッジに疑問を投げつける。どうして最後の彼女がこの点で、この順位なのかと。

「なんで、どうして…」

再び突き落とされたような感覚を味わい、呆然と疑問の言葉を呟き続ける私を、慰めるようにエレナは言ってくれた。

「採点って、時々よく判らないものね。だけど私は、彼女は少なくとも、銅メダルか銀メダルを受け取るべきだと思う」

近くの席に座っていたので、何度か話をしたイタリア人のフィギュアスケートファン、お手製の大きな国旗を携えてカロリーナ・コストナーへ熱い声援を送っていた、マリアもこんな風に話していた。

「カロリーナはとてもよくやったわ。マオもファンタスティック。でも、今日は最後の子が一番良かったわね。…彼女は日本の選手でしょう、名前は何というの?」

安藤美姫浅田真央。ジュニアの時代から世界タイトルを手にしてきた彼女達であれば、日本選手に特に興味がなくとも、熱心なスケートファンはなんとなく名前を知っていることだろう。知名度という点では中野は二人には及ばない。そうであっても、事前の評価や先入観など関係なく、スケートを愛する人間に興味を抱かせるに足る演技を、この夜、中野友加里はスカンジナビウムの氷上に刻んだのだ。

もちろん、結果が覆ることはない。リンクの上では授賞式の準備が着々と進められて行く。大きな歓声に迎えられて、表彰台の上にメダリストの3選手が立つ。優勝は浅田真央イエテボリのコーラスチームがよくよく練習したのであろう、綺麗な発音の「君が代」と共に、一番高い位置に日の丸が掲げられる。

続いて、花束を手にしたメダリストらのウイニングラン。思わぬアクシデントに見舞われながらも、念願のワールドタイトルの証である金メダルを首から提げて、輝くばかりの笑顔を見せている浅田。欧州開催の世界選手権という、励みにも重荷にもなる舞台で見事銀メダルを獲得し、どこかほっとしたような表情のコストナー。二年連続の銅メダルという結果に、少しばかり複雑な笑みを浮かべているようにも見えるキム・ヨナ。無論、メダリストらの技術は素晴らしく、今晩の演技はジャッジの採点基準に照らせば、彼女らこそがメダルに値する存在だったのだろう。

世界フィギュアスケート選手権はスポーツの競技会であり、対人成績で順位の付く種目なのであるから、どこかで線を引かねばならないし、その判断基準は統一化されねばならない。現行の新採点法の方が、旧採点法よりも評価の下し方において優れているのは認めよう。だがそれでも、両日を通して、観客が一番素晴らしいと思った演技を見せてくれた選手が金メダルを取れるような、そんな風な採点法にはなれないものだろうか、と思ってしまう。

ジャンプの見分けもあまり付けられない、ただの素人である私には、減点対象となる細かな技術の問題はわからない。それでも現地で観ていた者として、これだけは言える。あの女子シングルのフリーが行われた晩、一番こちらの心を動かす素晴らしい演技を見せてくれたのは、一番多くの拍手と歓声を貰い、人種も国も関係なく、人々を立たせて惜しみない賛辞を受ける資格があったのは、他の誰でもなく、中野友加里であったということを*3

ウイニングランのBGMはスウェーデンらしく、ABBAの「The Winner Takes It All」。どこか切ないメロディが胸に残り、あの歌を聴く度に、あの夜のスカンジナビウム・アリーナの空気が思い出されて、涙がこぼれそうになる。

栄冠を手にした、美しき勝者をいくらでも讃えよう。けれど、どうしてここに中野友加里の姿がないのか。それがただ、悲しかった。

なお後日、歌詞をよくよく読んでみたところ、果たしてこれがウイニングランのBGMで良かったのか? と疑問を抱いてしまう部分も大きかった。以下は自己流の和訳である。部分訳な上にかなり超訳気味であるので、ご了承を。

ここで起こったことについて、もう何も話したくないわ
胸はまだ痛むけれど、全ては終わったことよ
あたしはやれるだけのことはやったし、あの子だってそう
何も言える訳なんてない
切り札だって残っちゃいない

あの子がみんな持っていくのよ
ちっぽけなあたしは、《勝利》ってやつの側で立ち尽くすだけ
そういう決まりなの

(中略)

氷みたいに冷たい心の神様たちは、あたしたちでサイコロ遊びをしてるのね
そして誰かが落とされていって、大切なものを失うの
勝ったあの子がみんな持っていくのよ
みじめなあたしは消えなきゃいけない
とっても単純で簡単なこと
文句なんて、どうやって付けられるっていうの?

(中略)

一体あたしが何を言えるっていうのかしら
《ルール》には従わなきゃならないのにね

ジャッジが決めるんでしょう
あたしみたいなのは、ここにいなきゃいけないって
ショーの観客はいつだって見ているだけなのよ
そしてゲームはまた続いていくの
恋人、それともただのお友達?
大きな栄光、それともちっぽけな敗北?
勝ったあの子だけが、手にすることのできるものよ

(後略)

――これも仕方のないことではあるが、今季*4中野友加里の世界選手権への出場の道がほぼ閉ざされてしまったのは残念でならない。昨シーズンのイエテボリで現地観戦をしていたスケートファンならば、もしかしたら日本選手の中では現・世界女王の浅田真央よりも、あの最終滑走者であった「ユカリ・ナカノ」に再び会うことを楽しみにしているかもしれないのに。

願わくば中野ではない、日本の女子シングルの代表選手達が、あの時のスカンジナビウム・アリーナでの中野友加里スペイン奇想曲」を超えるほどの名演を、満座の観衆からスタンディングオベーションを向けられるような演技を、世界の舞台で見せてくれるよう。

今はただ、来るべき3月の米国ロサンゼルスでの試合に向けて祈りながら、この記事を締めくくることとしたい。


※なお、文中の選手名以外の人名は仮名であることをお断りしておきます*5

*1:願わくばワグナーにはこの経験を糧にして、どんな事態にも動じない強さを手に入れて欲しい

*2:技については素人が観客席から見ていた限りの判断であるので、実際の認定がどうであったかということは、この際別物とお考え頂きたい

*3:期するものもあっただろうに、採点時、それでも笑顔を絶やさなかった中野と佐藤コーチは偉大だと思う

*4:2008-09シーズン

*5:彼女達がもしこのブログを見てもわからないだろうけれど、一応